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それは20歳のことであった。口内に腫瘍のようなモノができた。家庭医学辞典で調べると悪性腫瘍の症状にピッタリ当て嵌まった。
死について考えたことも無かった自分がそれからというもの、死の恐怖に怯える毎日を送ることになった。「死んだら終わり」と思っていた自分にとって死にゆく自分を支えるものは、この地上に存在しなくなった。両親も友人も誰一人、死から自由な人はいなかった。死に行く彼らに僕の不安を支える力は無かった。それまで考えたことも無かったことではあるが、「人間が偶然に生まれて偶然に死んでゆく存在であるのなら、人生に何の意味があるのか?」その思いが心を満たした。
生来、自分の身体の異常に対してとても神経質であったが、この死に対する恐怖を感じてからは、どんな小さな身体の異常も、死の病と結び付けて怯えるようになった。このような状況の中にあって、自分を救う為に、人間存在や人生の意味について必死に求めるようになった。哲学や仏教、聖書など古今東西の文献を貪るように読み漁った。その中で心を落ち着かせる為に座禅を自分で工夫してみたり、不安になると聖書や仏典の中の気に入った言葉を心の中で唱えてみたりした。
道元禅師の言葉に「心は万境に従って転ず。転ずる所、実によく幽なり。流れに従って性を認得すれば、無喜また無憂なり」があり、また「自己を運びて万法を修証するを迷とす。万法進みて自己を修証するは、悟りなり」とある。また新約聖書のイエスの言葉に「明日を思い煩うな。明日は明日自身が思い煩うであろう。今日一日の苦労は今日一日にて足れり」とあり、これらの言葉が私を支えてくれた。
癌恐怖に怯えていた頃は、激しい死に対する不安に翻弄され、自律神経の極度の緊張の為に、眠れなくなった。たとえ眠ったとしても冷汗と激しい不安発作とともに夜中に目が覚めた。この世の何処に行こうともこの死に対する不安から自由にはなれなかった。
上記した道元の言葉は、森田療法を学び体得する中で出会ったのであるが、世界と自分を切り離して見ていた当時の自分を世界内存在としての自分として、感じさせてくれた言葉の一つであった。「柳は緑、花は紅」という禅の言葉もその頃出会った。「あるがまま」を体得させようとする森田療法は、東洋の思想と結びついていてとてもおもしろかった。
クリニックでお会いする患者さんの中には、所謂、心気症といわれる症状に苦しんでいる人も多い。心臓や胃腸と云った器官は自分が動かしている訳ではない。にも拘わらず、自分の意のままに動かそうとして、本来のリズムを狂わせてしまう。極論すれば内臓を含め肉体の殆どの内臓諸器官は、世界が動かしている。その本来のリズムに任せることが出来れば、自然治癒力が働いて健康な方向へ運ばれてゆくのだが、小さな自分の自我意識で動かそうとする。
「得るは捨つるにあり」という禅の言葉もある。鬱状態に苦しんでいた頃、ハッと気が付いたことがある。「人間は見えるものしか見ていない。聞こえるものしか聞いていない」という気が付いてみれば極めて当たり前の事実だった。肉眼で捉えることの出来る範囲は、極めて限定されたものであり、人間の聴力が捉え得る音の範囲も、とても限られている。その気づきがその後の自分の人生の出発点となった。
相変わらず、死の不安に圧倒される毎日であったが、あまりにも抑鬱や不眠が苦しいので、夏休みの3週間の間、心療内科の一部であった思春期内科に入院した。この夜処方された薬がジアゼパム(セルシン、ホリゾン)であった。その夜、本当に久しぶりにぐっすり眠った。あの日の安心感を僕は決して忘れない。経済学部の学生であった僕は、いろいろ考えた末に精神科医になろうと決心した。
さて、鬱病は最近の流行のようでとても多い病気である。まず知っておいて欲しいのは、『鬱病は必ず治る』という事実である。思いつめて自殺する方が多くとても残念に思う。本人は鬱状態の中で世界の暗い面しか見ることも感じることもできないことが多い。特に家族やローンを抱え鬱病になった人には、経済的な不安ものしかかってくる。身体が拒否反応を起こす程に心身ともに疲れきっているのに、休養を取らず、無理にその生活を続けようとする。このような時、適切な助言をしてくれる上司でもいればいいのだが、競争社会の中で生きてきた人々にとって、競争から降りることは、人生の脱落者になるような不安を感じるのかもしれない。しかし鬱病という病が私達に呼びかけている言葉に耳を傾けることができるなら、鬱病は必ず克服できるのみならず、鬱病を通して人間的成長がもたらされる。
人間は誰も死ぬ。誰もその厳然たる事実を変えることはできない。しかし生まれてくる時に裸で生まれてきたように、この世を去る時も、自分の心以外何一つもってはいけない。思いきって仕事を休んで適切な治療と休養がなされれば、普通の鬱病であれば、一ヶ月〜二ヶ月で気分はかなり良くなる。傍にいてその人を支え続ける人が必要である。その人を決して見捨てない同伴者がいればその人は必ず回復してゆく。
鬱病に苦しんでいる方がいるなら、気軽に受診して下さい。
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